棘と蜜 4

 今朝目が覚めてからはすっかり忘れていたが、今日は付き合って一年の日だった。

 今日渡せなくてもいいから、何か買っておこう。一緒に撮った写真を現像して飾っておくためのフォトフレームとか、二人のためのものよりネックレスだとか指輪だとかそういうアクセサリーの方が嬉しいんだろうか。こんなに恋人を大事だと、大事にしたいと思ったのも初めてなら、ちゃんとしたプレゼントを贈るのだって初めてだ。何を買おうか考えただけで緊張するし、アクセサリーを置いてある女性向けの店に入るのは少し恥ずかしい。店員が彼女さんにですかと話しかけてくるのに至っては、店で声をかけられるの自体慣れていないものだからその場から消えてしまいたくなった。

 結局、最初から最後まで女性店員の説明を受けながらプレゼントを選ぶ事になってしまい、僕はアイオライトのネックレスを買う事にした。角度を変えて光にかざすと色が変わるという特徴になんとなく惹かれたが、幸福な結婚に導いてくれる力があるそうですよという店員の言葉に後押しされて、少し一人にしてほしいと頼み、どんな石言葉があるのかその場で調べてみた。誠実、徳望、貞操の石だと記載されており、初めての愛という意味があるというのを目にした瞬間に、これしか無いと値札を見ずに購入した。

 喜んでくれるかどうかなんて考えてわくわくして、どこまでも僕らしくない。

 叶衣はとっくに帰っている筈の時間なのに、家に帰ると妙に静かだった。彼女の名前を呼びながら、一部屋一部屋確認していくが、玄関の鍵は開いていて普段履いていく靴だってあるのに見当たらない。まさかあの部屋じゃないだろうなと一瞬疑ったが、鍵を掛け忘れるなんて事はありえない。恐る恐る僕の部屋のドアノブに手を伸ばしていく。ここに入られたら、僕の人生はそこで終わる。もしこの扉がすっと開いてしまったら、鍵が掛かっていなかったらと、全神経が扉を開いた後どうするべきかを考えた。

「おかえり」

 突然背後から叶衣の声がした瞬間に、勢い良く振り返る。その時やっと自分が殺気立っていたのに気が付いて、ゆっくり落ち着かせていった。

「ただいま。名前呼んだのに返事無いから結構探したのにどこにいたの?」

「あー…ごめん寝てた」

 可笑しい、家の中は一通り見て回ったが姿は見当たらなかった。だが、考えてみれば、しばらく彼女の姿が見えなかった理由を突き止める必要はどこにも無い。

「何かあったのかと思って心配しただろ」

「その部屋に入ったかどうか気にしてるの?鍵閉めてるんだから心配しなくていいよ。そんな事よりご飯食べよ?」

「うん、ありがとう叶衣」

 普段と変わらない口調に思えるし、いつも通り優しい彼女だが、そこはかとなく様子が可笑しい。

 夕食に用意されていた料理は僕と彼女が口を揃えて好きだと言っているものばかり。美味しいと言わなくとも、表情から感情を汲み取っているようで、満足げな笑顔を浮かべていた。化粧に力を入れたのか一段と綺麗に見えて、いつもより綺麗だと柄でも無く伝えてみるとすごく嬉しそうだ。写真を貼り付けて綺麗に飾付けされたコルクボードや、可愛いデザインの封筒に入った手紙を渡された。僕からも買ったものを渡すと中身を確認する前から、記念日とか興味無さそうなのに何かくれると思わなかったとさらっと酷い事を言われてしまったが仕方無い。以前の僕なら、貰ったとしても何かで返すという事は無かったと自分でも思う。綺麗に包装されたものを早速開けるて身に付けると、アイオライトはとても綺麗に映えていた。

 彼女といられるだけで僕は幸せな筈なのに、どうしても違和感が消えず、ずっとその原因が何なのか考えるのを止められなかった。違和感の答えは意外にも自らが教えてくれた。居間を出ようとした時、台所で片付けをしていた叶衣に、後ろから抱き付かれた。

「寂しさとか悲しさとか、陽に全部消して欲しい」

 僕が一年前、その相手に叶衣を選んでしまったみたいに、か。もちろん、一年前の事を後悔はしていないし、あの日あの場所で会ったのが叶衣で良かったとさえ思う。だからこそ、理性を保つのに必死なんだ。

 後ろへ向き直って掴んだ彼女の両肩は、体は、萎縮しているように感じられて、その小ささに狼狽えた。

「分かった。その前にお風呂入っておいでよ」

 彼女は僕の促した通りに浴室に向かった。シャワーの勢い良く床に打ち付ける音が聞こえ出すと、すぐさまギャラリーとも言える僕の部屋に入る。

 気持ちを整理する時間が必要だと瞬時に思った。

 イーゼルを蹴倒して、床に叩きつけられたキャンバスをナイフで切り刻んだ。いつも愛でている写真はそこに存在しないかのように、壁に拳を叩きつけた。写真はぐちゃぐちゃになって、呆れて笑いが込み上げてきた。ぼろぼろになった部屋の真ん中に座り込むと寝そべり、顔を手で覆う。

 真っ直ぐに見つめてきた彼女の瞳は、潤んでいて悲しそうで、呼吸を忘れるほど美しかった。僕がその中に見たものは、僕が今まで愛してきた恋人達の顔。同じような、悲哀とも憎悪とも受け取れる目で見つめられていた気がする。彼女らが最期に見せる顔は、共に過ごした時間の中で、最高に綺麗になるのだ。

「陽?シャンプーどこだったっけ。陽?…どこ?」

 突然、シャワーを浴びている筈の叶衣の声が聞こえ出した。シャワーを流したまま浴室を離れたせいで声や足音が掻き消され、彼女が近付いて来ているのに全く気付かなかった。急いでここを出て鍵を閉めなければと、体を起こした瞬間、バスタオルを胴体に巻いた彼女が開け放していた扉から姿を現す。

「なんでこんな暗いまま…」

 彼女が何をしようとしているのかは、廊下の電気のおかげで分かった。やめろという願いは声にならず、今日で終わりだと感じた僕の第六感が涙を流した。どうせいつか失う事になっていたんだと諦めたのは、一番奥にある僕の本能だった。

 明るくなった瞬間は壁に張り巡らされた写真に写っているものが何なのか理解出来なかったようだが、彼女の顔が次第に恐怖で歪んでいく。彼女が目にしたのは肉体を切り刻まれ血で赤く染め上げられた死体で、常人が目にすれば嘔気を起こすのは造作も無いものばかりだ。それらは自らが愛してやまない、決して世には出せない僕の作品だ。

「なんでこんな写真持ってるの…?」

 幸せそうに笑っていた顔なんて思い出せないほどの醜い笑顔を浮かべて、恐怖に震える声で聞いてきた。今目の前に広がっている光景に足がすくんでいる。近寄っていくと、僅かに後退りするが転けてしまった。その反動で巻いていたバスタオルが取れて、水を纏った妖美な体が姿を露にする。丸みを帯びた肩、膨よかな胸、腰から脚にかけての曲線、女性の体は芸術作品だ。だからこそ滅茶苦茶に壊して、最高傑作に仕上げたくなる。

「これ全部、僕が作った作品。血が赤いドレスみたいで綺麗でしょ?叶衣も僕の作品になってよ」

 そう、僕には愛した人を殺してしまう性癖がある。

 床に倒れ込んだ彼女の体に跨ってそっと口付けをした。

「真子の事も…?」

「そう」

 首筋にナイフを這わせると、真っ赤な血が肌を伝って床に落ちる。

 ずっとこうしたかったんでしょと、僕の中で誰かが嗤いかけた。恐怖に震え怯える恋人の顔を眺めながらナイフを入れていくのが、自我を失った僕にとっての最高の快楽だ。涙に濡れて煌めく瞳、歪む表情、体に走る激痛に伴う喚き声を全身で受け止めながら、息絶えるまで傷を加えていく事に、芸術家としてのエクスタシーを感じる。

「愛した人に殺されるって幸せなのかな?」

 無我夢中でこの子をどう扱おうかと考えていたのが、その言葉に自己を取り戻した。見れば涙を流してはいるものの、先刻までと打って変わって、その顔は自分は今から天国に行けるんだという幸せそうに安らいだ表情を浮かべている。

「陽と一つになれるんだったら、殺してくれていいよ」

 彼女が何を言っている事は、瞬時に理解できるものでは無かった。ナイフを突き付けられて慄く事無く、殺されたいと懇願している?しかし、そもそもが間違っている、僕は恋人を芸術作品にしたいんだ。死にたい人間を殺したって素晴らしい作品が出来る訳が無い。

「やめた」

 溜め息を吐きながら立ち上がると、洗面所に行き、ナイフに付いた血を洗い流した。鏡に映る自分の醜い顔を見つめていると、先刻の叶衣の安らいだ顔が思い出された。あんな顔をされたら僕が彼女と一緒にいてはいけない事を自覚する。僕がこんな人間でなければ、君の幸せな未来の中に存在する事が出来た筈なのに。

 ああ、そういえばシャンプー探してたんだっけ。

 部屋の前に戻ってみると、叶衣は動く事が出来ないまま、バスタオルに包まって肩を抱えて全身を震わせていた。

「シャンプー入れといたし、お風呂戻ったら」

 僕の声は聞こえていない様子で、肩を擦ろうと手を触れた時に、初めてこちらに気が付いた。その目は、まるで得体の知れない化け物の正体を明かすために、必死に情報を得ようとしているかのように見開かれている。ナイフを突き付けられた直後に、しかもその張本人に普通に接するのはとても難しい事だろう。

 ふと目が首を捉えて、傷口から見える血に痛々しさを覚えてすっと立ち上がった。叶衣は僕の細かい動きにまでいちいち反応してやはり怯える訳だが、もう気にも止めなかった。

「ちょっと痛くするけどごめん」

 震えている叶衣の反応は気にせず、僕は僕自身がしたいと思う事をした。彼女はもはや放心状態で痛覚も共に麻痺してしまっているようで、断る必要は無かったらしい。今何を話せばいいか分からないし、それならそれで好都合だ。

 消毒をして絆創膏を貼ったので、浴室に戻って首を流しても傷に染みる事は無いだろう。僕が声を掛けて無理に正気に戻す訳にもいかないので、一旦は放っておいて様子を見る事にする。

「ありがとう」

 僕が立ち上がってベッドで横になろうと、背を向けた途端に声がした。

 悪いのは全部僕で、自分が付けた傷を手当しただけなのに、感謝するなんて馬鹿なんじゃないだろうか。今日の彼女には呆れさせられるばかりだ。

「体冷えるよ」

 思い切り体を預けると、柔らかいベッドは衝撃を分散させた。首を流れ落ちていった血の赤が、真っ暗な天井しか無い視界を散らつく。今まで自分が手に掛けてきた恋人の顔を思い出しても、これほど胸がざわつく事は無かった。僕の中から消えてほしいと願ってしまうほど、彼女の全てが疎ましい。顔も、声も、言葉も、体も、…血も、僕には好ましくない。

 ずっと隠し通していける気がしていた。日常なんて一瞬で崩れてしまうものだ。もう彼女との生活は続けられない、それでいい。