棘と蜜 3

 初めて叶衣が声を荒げた日から二週間ほどが経ったが、彼女はハマったと言いながら家事をこなし続けていた。掃除や洗濯、食事、昼食には可愛く盛り付けた弁当まで用意してくれる。更に結婚生活を思わせて、この子と結婚したら幸せなんだろうなと思った。

 僕は相変わらずあの部屋に何があるのかは言っていなくて、彼女も踏み込んではいけないのだと自分自身に言い聞かせているようで、聞いてこないのにはとても助かっていた。僕にもたまに、恋人だからといって何でも聞いていい訳では無く、ある程度お互いの間に秘密がある方が関係は上手くいくんだと豪語する。また、嫌いになる訳が無いという一言が彼女を納得させたのか、体を交える事が愛している証拠で無いとか自分で納得しているのかは定かで無いが、彼女が悩んでいた事にもあの日以来触れなくなっていた。そんな我慢さえ愛おしくて仕方ない訳だ。家にいる時、起きている時間の大半は、体が自然と誘われるので彼女が家事をしているところを眺めている。愛情は深まるばかりで、いつ理性を失っても可笑しくない状態だ。可愛くて愛おしくて、美しくて、そういった気持ちがどんどん膨らんでいった。

 あと数日で交際から一年を迎えるが、世間でも割と祝うべき記念日とされている日を、叶衣も大事にしたいらしい。壁にかけているカレンダーの、十一月十日は赤いペンで書かれたハートで囲まれている。ここ数日は家事をする姿より、僕に秘密で計画を進めている姿の方が多く目にするようになった。目を輝かせて熱心に何かを作る姿を見ていると、どんなものを用意してくれているんだろうと考えて僕も当日が楽しみになっていた。

 九日は僕はバイトに行っていて、家に着いたのは十二時過ぎだった。ダイニングテーブルの上にはラップがかけられた夕食が置いてあって、叶衣は既に眠りについている。起きて待たれるのはかえって気を遣うので、あれほど楽しみにしていた日さえ適度に自分のペースで生活しているほどの彼女と付き合った事で、家が以前より居心地の良い場所に変わった。彼女が何をしたという訳で無く、ただここにいてくれるという事が幸せで、どれだけ感謝しても足りないくらいだ。今日で僕は、本当の幸せに一歩近付ける。そう思いながら、彼女の隣で眠りについた。

 携帯電話のアラーム音では無く、着信音で目が覚める。彼女のが鳴ったようで、ぼやける視界の中に、叶衣が誰かと話しているのを見た。口を片手で覆って肩を震わせて、声からしても確かに彼女は泣いている。今日は僕等が付き合って一年という特別な日で、そんな日に悲しい事が起こる訳が無い、…そうだ、これは夢だ。目を瞑って次に開けた時には、ちゃんと幸せな一日が始まる筈だ。

 その筈だった。

 目が覚めて意識がはっきりしても、僕の目に映った彼女の曇った表情は変わっていなかった。消え入りそうな声で僕の名前を呼んで、言うか言わまいか迷っているようだったがすぐに口が開く。

「朝ね、真子のお母さんから電話来て、見つかったんだって、真子」

 叶衣が真子の母親から伝えられたのは、一ヶ月ほど前に見つかった白骨遺体が真子のものだと分かった事、ショックが大きすぎて真子の死を受け入れられず葬儀の準備も進められなかった事、やっと設けた葬儀の日程が今日から一週間後に決まった事。大学が忙しいかもしれないが、少しの間地元に戻って、葬儀に出て欲しいと言われ、叶衣はもちろんだと即答したらしい。

 真子の母親との電話の内容を言い終えると、悲しそうに口をつぐんでいた。僕はそんな彼女を目の前にして、慰めの言葉さえ出てこなかった。ニュースを見た日に伝えなかった自分を咎めたい気持ちがあったからかもしれない。

 あの時僕の口から伝えるべきだったのか、ニュースをつけて報道から知るように仕向けるべきだったのか、真子の母親からの電話が来たそこで初めて知るべきだったのか。どの道なら彼女のショックを最小限に抑える事が出来たのかと、今更悩んでも意味の無い考えを必死に巡らせていた。

「白骨遺体…?」

 何かを思い出したかのようにその単語を呟いて、叶衣が僕を見つめてきた。つい先刻までは気持ちを落ち着かせられていたのか少しも目に涙を浮かべていなかったのに、今僕を見つめている瞳は潤んでいる。

「陽さ、ちょっと前に白骨遺体の身元が判明したみたいな事言ってたよね」

 僕が考えていたから思い出してしまったんだろうか。何か言っていれば考え込む事も無く、思い出さなかったかもしれない。こんな時さえ真っ直ぐに目を見つめてくる彼女に、嘘を吐ける訳が無く、言い訳が出来る訳なんてなおさら無くて、ただ頷いてみせた。

「あの時言ってたのが真子だったんだよね…。隠したように見えたから、もしかしたらっては思ってたけど」

 全てがどうでもよくなったと言わんばかりに、髪を掻き上げて部屋を出て行った。僕は、一人寝室に取り残されて、ベッドに下ろした腰をしばらく上げられなかった。今家の中で顔を合わせても、どんな顔をしていいかもどんな言葉を言っていいかも分からない。玄関の扉の開閉した音で叶衣が家を出たのを確認すると居間に向かった。

 あの時濁さずに、すぐに言っていれば、少なくとも僕が彼女を傷付ける事は無かったんだ。伝える気が無いなら何も言わなければ良かったのに。

「叶衣のやつ、何してんの」

 ダイニングテーブルには夜にバイトで遅くなった時と同じように、ラップをされた食事が並んでいた。携帯電話にメールが入っていなければ置き手紙さえ無いけれど、朝食から彼女の底知れない愛が感じられた。

 悲しすぎる現実を知らされて、隠していた僕を恨んだのかと思ったのに、それでも普段と変わらない朝食を用意してくれて、僕が彼女だったら同じように出来ただろうか。そう考えると、彼女の優しさに涙が溢れてきた。