泡沫の彼 1

 交通事故に遭った夜、事故現場が病院と近かったため即座に応急処置を受ける事ができ、三日後の昼間に、私は意識を取り戻した。だが、そこからが問題だった。外傷は軽度のものだったが、事故に遭った時のことを全く覚えていない。医師に覚えている事はないかと質問攻めにされ、息が詰まる思いだった。
「悠那大丈夫!?」
 蝉が鬱陶しいほど夏を訴える七月の午後、扉が大きな音を立て開いたかと思うと、飛び込んで来たのは二十代半ばの青年だった。

「失礼します」
「智希君」
 病室の扉を開けた彼の名前の後に紡ぐ言葉に迷って、そこで口を閉ざした。
 彼の名は前崎智希。笑顔を浮かべ今日も訪れた彼は、私の大切な友人らしい。というのも、彼の名前も顔も、話したことだって覚えているのに、いくつか思い出せないことがあるのだ。担当の医師である父からは、事故の際に頭部を強打したせいで、記憶が欠損している可能性があると伝えられたため、それに一切不安は無かった。ただ、前崎智希を友人だとする自分の記憶に自信が無かった。
「毎日来てくれなくてもいいんだよ?」
「家にいたってする事も無いし、会いたいんだ」
 ベッドの側まで来ると、そう言って優しそうに微笑んだ。事故以前は、十七の私と歳はあまり変わらないように思わせていたのに、今は年相応といった感じで、話した記憶がちらつくせいで妙に落ち着いていると感じさせるところがある。それに、言葉や表情から、心が感じられないところもあった。
「変なの。彼氏みたい」
「友達だってそういうとこあるだろ。付き合ってないのは自分が一番よく知ってるくせに」
 少し悲しそうな表情を浮かべて、絶対に目を合わせないでそういう事を言う。もしや彼は事故以前私の恋人だったのではないだろうかと思うが、それを確かめるような事をしてしまうと彼がもう私の元へ来てくれなくなる気がして、そっと胸にしまうのだ。そもそも、彼には私の記憶が曖昧だという事実を伝えていないのだから、付き合っていないというのが真実で間違いない。
「いつ退院できるかな…」
 と、自分の疑念を紛らわすために、特に気にしてもいないことを口にしてみた。
「そんなに長いことかからないでしょ。大事をとってって先生も言ってるし、すぐできるよ」
「そうだね」
 同じことを父にも聞くと同じような答えが返ってきたが、その同じような誰でも言いそうな台詞が、彼が言うと特別なものに聞こえて、涙がこぼれそうになった。
 不治の病に冒されている訳でもないのに何故だろう。
「退院したら一緒に出かけてくれる?」
「いいけど、なんで俺?」
「誰に声かけたらいいか分からないから」
 電話帳にある女の子の名前を見ると、どんな子だったかとかどのくらい仲が良かったなどは思い出せるが、誰一人として見舞いに来てくれていないのが今の現状だった。
「しょうがないな」
「約束ね?」
 仲の良い友人が誰なのか分からないというのは好都合で、退院したら会えなくなるんじゃないかというのが不安の種だった。目が覚めてから一週間が経っていて、一日も欠かさず通い続けてくれていた彼は、誰よりも大切な存在になっていた。
 話すことは毎日同じ、お互いの昨夜の夕食とか寝るまでと起きてからは何をしてたとか、今朝は何を食べたとか。数日前は、観ていたドラマの話をすると、少し高いトーンで俺も観たと言うので、その偶然に会話が一気に膨らんで、私もすごく嬉しく思った。本当は、事故に遭う前に彼とそのドラマの話をしていたのを思い出し、昨夜急いでテレビをつけて絶対この話をしようと決めていたのだった。
 なんでそんなに優しくしてくれるの?なんで毎日来てくれるの?暇だからってただの友達に毎日会いに来たりしないでしょう。そんなことを頭の中でちらつかせながら、彼と他愛の無い話をする。
 ただ、一日一日、彼との新しい思い出が増える中で、私は薄々気付き始めていることがあった。彼が私と一定の距離を保ちたいということ、いい友人という関係から踏み込んできてはくれないこと、そんな微妙に安定した関係をこの先も続けていくのだということ。
 会っている間はあまり考えないようにして、気のせいだと思っていた。
「おーい、もしもーし」
 ふと我に返ると、目の前で悠那の手がひらひらと動いていた。
「…え、あ、ごめん、何か話してたっけ」
「この前退院したら出かけようって言ってたから、どこ行くか話してたじゃん」
「そっか、ちょっとぼーっとしてた」
 そんな話をしていた記憶が無いあたり、完全に上の空だったらしい。
「で、悠那は?」
 その瞬間、鼓動が跳ね上がって、自分の心臓の音がうるさくなって思考回路が停止した。
 まあ言い出した本人が行きたいって言った場所に行くべきだよね、と智希が話すのはかろうじて聞こえている。しかし、頭の中は今初めて、呼び捨てで名前を呼ばれていたのだと思い出したことでいっぱいいっぱいだ。
「どうかした?」
「ううん、どうもしてない。…ただ、事故に遭ってから、初めて名前呼ばれた気がして…」
「ああ、わざわざ呼ぶこともないしね。別に特別なことでもないと思うし、嬉しそうな顔されても困るんだけど」
 目を逸らして言われた言葉には明らかに壁があって、一瞬にして天国から地獄へ落とされたような気分だ。
「そうそう!水族館に行きたいな」
 わざと明るく返事をして、不穏な空気を紛らわした。水族館を選んだのは、記憶が一瞬思い出されたからだ。
 じゃあそうするかと目を細めて笑顔を作られると、本心が全く分からない。
「別に、嫌なら一緒に行ってくれなくてもいいんだけど」
「なんで?誰も嫌なんて言ってないじゃん」
 先刻の名前のが無ければ、まだ否定的な気持ちは見えなかったのに、彼のいつもの優しい笑顔さえ愛想笑いにしか見えない。
 気が付いたら、もう三週間も経っていた。毎日会って一緒にいれば、見えなくていいところまで見えてきてしまう。気付いてしまった事が、だんだん確かになっていく。
 嫌だな。大切な貴方を疑う私も、距離を保とうとする貴方も。事故に遭ったのが、きっと運の尽きだったんだ。
「もう来ないでほしい」
「…なんでいきなり…?」
「いい加減うんざりしてるの。毎日毎日つまらない話ばかり。私はここから動けないから仕方なく貴方の相手するしか無かったの」
 私の口が紡いでいったのは自分自身でも軽蔑したくなるほどひどい言葉で、歪んでいく表情の彼の目を見つめながら動いて、それでも止まらなかった。やっと口が塞がった頃には、見ていられないほど悲しそうな顔をしていて、ベッドに視線を落とした。
「…ごめん、言い過ぎた」
 智希が何も言い返そうとしないのは私には都合が良くて、もう一度同じ台詞を言い放った。
「もうここに来ないで」
 本当のことを言えなかったのは、心の中で出た智希に関しての考察の結論が、事実になるのが怖かったからなんだと思う。
「気は遣ってたつもりだったのにな」
 その言葉に顔をあげると、いつもの笑顔がそこにあって、無理をしているのは瞭然だった。ただ、今までで一番、感情の伺えるものでもあった。
「気付けなくてごめん。もうここに来るのはやめる」
 そう言って、智希は鞄を肩にかけると、そそくさと病室を出て行った。背中が悲しそうなのは、勘違いでも何でも無い、確かに私が作ったものだった。扉が音を立てて閉まって、足音もどんどん遠ざかっていった。
 言いたいことはもっとあって、でもその全部が天邪鬼な言葉になってしまう。だから、彼の心にさらに傷を付けることになるから言えなかった。
 ただ、その中に一つだけ願いが。
 私のことが好きだから、会いに来てくれてるんだといいなって、心から願っていました。本当にそうなら良かったのに。
 静かになった病室は大切な彼へ暴言を吐いた私を責め立てているように思える。彼を傷付けてしまった事と明日からもう会えない事しか頭の中に無くなって、涙が溢れて止まらなかった。
 この日を境に、彼はここへ訪れなくなった。