棘と蜜 5

 不思議な事に、翌日からも彼女は僕と同棲を続けていた。朝は朝食と昼食を作り、夜も丁寧に夕食まで、何事も無かったかのように僕の分まで用意してくれる。言葉を交わす事は無くとも、彼女の行動だけにしても十分信じられるものでは無い。家事を命じられた感情を持たないロボットのように、気持ち悪いほど規則正しく毎日同じ時間に同じ家事を行っているようだ。

「真子の葬儀出てくるね。一週間の内に帰ると思う」

 久しぶりに口を効いたのは一週間後の事だった。いつの間にか地元に戻る準備を進めていたようで、少々の荷物を肩に担いで僕に話しかけてきた。

 貴方が殺した女の子の葬儀に出てくるという皮肉に取れない事も無い。ただ単に幼馴染の葬儀に出てくるという意味かもしれないが、僕が気になったのはむしろ後ろに付け足された台詞だ。

「戻ってこなくていいんじゃないの」

「え?」

「僕はこの先叶衣に指一本触れるつもりは無いよ。でもそれが保証されてる訳が無いし、いつか死ぬ事になるかもしれないのに」

 殺されそうになった相手と同じ部屋に住み続ける事自体が可笑しいのに、不思議そうな目で見つめられる意味が分からない。

 椅子に座っている僕の頬を両手で包み込み、優しく口付けを落として抱き締めてきた。彼女のお気に入りの、プレジャーズインテスの香りが僕に纏り付く。

「自首してほしいなんて言わない。陽と一緒にいたいの」

 彼女はそれだけ言って笑って見せると、呆然とする僕を放って家を出て行く。確かに残っていたのは、彼女の触れた感触と香水の匂いだけだった。

 今まで触れた事の無い種類の愛は、近くにあるだけで調子が狂う。

 彼女が居続けた一週間も、葬儀に出ると彼女が家を空けてからも、僕は変わらず家から出る事が出来なかった。ベッドでただ天井を眺めるだけの日々。

 彼女にナイフを突き付けた日から、僕は僕の作品を見る事が出来ていない。見る度に美しいと賛美していたのに、視界に入れるだけで嘔吐感に襲われるのだ。眠りに着くと、作品を作った時の記憶を鮮明に再現した映像が悪夢として僕を苦しめる。つい最近まではあんなに美しい姿を見せてくれていたじゃないか。あの子一人が醜悪な事を言い出しただけで、なんだって掌を返して僕を責め出したんだよ。

 彼女はただ自分を殺してもいいと言っただけだ。その愛故の言葉に、今までの行為全部を否定された気がして、僕自身を否定された気さえした。美的感覚を打ち砕かれて、心に穴が空いたような気分だ。

 何日が経ったのだろう、叶衣は一向に帰ってくる気配が無い。彼女がここにいたところで僕の喪失感は拭えない訳だが、ただ少し、嘘を吐かれたのかもしれないと思うと自然と涙が流れていた。僕の方がよっぽど大きな秘密を抱えていたのに。

「ただいま」

 窓から差す光が暗い橙色で部屋中を満たしている、今は夕方らしい。空腹だと感じる状態はとっくに超えていて、漠然とした意識の中で叶衣の声を聞いて、純粋に心が安らいでいた。

「愛してるよ、とっても」

 叶衣はベッドに寝そべる僕に顔を近付けてくる。唇が柔らかい感触を感じたと同時に、胸部が鈍い痛みを訴える。見てみると、胸の真ん中をナイフが貫いていて、血がどんどん滲んできていた。

「私考えたの。陽と一緒にいられるなら、いつか殺されても構わないって。愛する人になら何されるのもきっと幸せだと思うよ。でもね、陽は私を殺したら、次に出来る彼女を殺すんだろうなって思うと耐えられなくて。貴方の最後の恋人になりたいって思ったの。私が貴方を殺したら丸く収まるでしょ?」

 彼女の顔は見えないが、朦朧とする意識の中で声だけは聞こえていた。揺れる視界の中で、耳に入ってくる言葉を一文字一文字理解しようとしながら、僕が描いていたものは死という終わりの未来だった。

 父の趣味は美術館巡りで、土産には毎回ポストカードを買ってきた。最初の内は父のくれるものだからと喜んでいたが絵画自体に興味は無く、貰ってはすぐポストカードケースに放り込んでいた。父さんがこんなもののために僕と母さんを一人にするから、絵画というものがむしろ嫌いになっていた。そんな中、初めて僕の心を奪ったのが、アモリー=デュヴァルのヴィーナスの誕生だった。初めて見た女性の裸体を描いた作品で、その美しさに、当時小学三年生だった僕の心臓は止まりそうになった。そして衝動的に、この美しい作品を壊したいと思った。鋏だったかカッターナイフだったか、刃物で細かく切り刻んだものをパズルのピースのように合わせていく。完成した時、僕は更に不完全なそれが真の芸術作品に思えた。それはそれは、子供ながらにそれから僕は、父から貰うポストカードを切り刻むようになる。

 初めて生身の人間を手に掛けたのは高校一年生の夏だった。高校に入学して最初に出来た彼女に、夏休みに彼女の家に呼ばれて性行為に及んだ時、僕は女性の体がこんなにも美しいものだというのを知ってしまった。僕の脳裏を浮かび上がったのは、彼女を血で赤く染め上げたいという初めての感情。そんな事に気付く筈も無い彼女が快楽に溺れる中、僕は彼女の肌にナイフを切り付ける。彼女の目から光が消えたのが行為に及んで何分くらい経った頃かは分からない。そして高校一年生の夏、久世陽斗の処女作が出来上がった。

「さようなら」

 そういえば初めてのあの娘の時、心臓を一発で貫いたんだ。今僕がされているのと同じように。

 誰を恨めば良いのだろう、どうすれば良かったのだろう。僕が出した沢山の犠牲の上には、人並みの幸せなんて成り立たないとでも言うのか。自分の本能に逆らえなかっただけで、彼女らの命を奪いたい訳では無かった。全てはその本能のせいで、仕方の無かった事だと、受け止められるものなら受け止めたい。ただ僕は、秦叶衣という女性を幸せにしたかった。初めて、叶うなら僕の進む道を、すぐ隣で見ていて欲しいと願った人だった。まさか彼女の手で殺される事になろうとは想像もしていなかったが。

 愛した人に殺されるって幸せなのかな?と僕に問いかける彼女が瞼の裏に浮かんだ。もう見る事の出来なかったかもしれない彼女の顔を死ぬ間際に思い出せただけで良かった。叶衣はその質問の答えを本当に知りたかったのだろうか。彼女の気持ちなんてどうでも良い、僕が君に伝えたいんだ。

 胸の辺りが痛みを訴えているのも、僕にはどうでも良かった。彼女に届くのを願って、自分に残った力を振り絞って声を出した。

「ぼ、くは、しあ、わ、せ、だっ………」

 僕の人生の中で一番の最良の日になった。愛した人の手に掛かって、僕の命が芸術に変わった日。