ユラユラに情愛 1

「話があるなら早くしてほしいんだけど」
 付き合い始めて一ヶ月になる恋人に、行きつけのカフェに呼び出された。いつもと違うのは、彼が身にまとった空気と、怒りのちらつく強ばった面持ち。何を話されるかなんて、安易に想像できていた。まただと、もう悲しいとは思わなかった。私と交際を始めた男性は、平均一ヶ月ほどで、その話を切り出す。
「お前さ、もうちょっと俺に関心持ってくれてもいいんじゃないの?」
 言い方はもちろん様々だ。この人は、自分はいかにも話し合う気があると思わせたい人。
「ごめんなさい。…でも、きっと貴方が私の事考え過ぎなだけなの」
 恋人という存在が欲しいとは思う。一般的に言う〝恋人に束縛をされたくない〟という観念を遥かに超え、そもそも恋人になった男性に大事だと想われたくない。だがそれでも、自身の心理さえ分からないが、ただ恋人は欲しいのだ。
 何も言えない目の前の男は、私の冷めきった態度に言葉を失っている。分かった、と口に出来ないのくらい重々承知している。今まで数人の男性と付き合ってきて、一度も分かってほしいと強要する事も無かった。
「私なんかの事考えてる暇があったら、もっと自分の事考えればいいよ」
 悪気は無い、ただ素直なだけの私らしい言葉を、カップに淹れられた珈琲に映る自分を見つめながら放った。私は彼を傷付けていた事に、今も傷付けている事に何の罪悪感も感じない。ならせめて私に罵声を浴びせて、この場から立ち去ってほしいと願った。
「好きになった奴の事考えちゃだめって言うわけ?我慢の限界だよ、いい加減にしろよ」
「想われると同じように返さないとって思う。でも私にはそんな事できないし、誰かの為に変わったりなんかできないから」
「ああそうかよ」
 だんだん変わっていた口調や声色が、完全に低く尖ったものに変わった。
「別れたいんなら別れたいって、最初からそう言えばいいだろ」
 違う、そんな訳無い。
 私自身が別れたいと思っていると決めつけられた言い分には、確かに胸が痛んだ。
 知らない間に皮膚にガラス片が刺さって、血が流れ出してから気が付いたくらいの傷だ。その傷は、私の心をじわじわと侵食していく。
「ごめんなさい」
 別れたいって言っているように見えるなら仕方ない。 
 謝ってしまえば彼の言っている事が正しいと肯定する事になるが、どう思われるかなど、既にどうでもよくなっていた。
「分かった」
 いつもの珈琲の代金を静かにテーブルに置いた。彼は至って冷静で、音も立てずに立ち上がったかと思うと蔑んだ目で見つめてきた。お前なんて好きになるんじゃなかったという台詞が、瞳の奥に伺える。
「連絡先消しといて。じゃ」
「うん」
 ありがとう、さようなら…と、少しだけ傷の付いた心が口に出すのを拒む。そう口を開きかけてはいたものの、本心は、やっと何度目かの嵐が去ったと安心していた。自分でも、面倒くさい別れ話を切り出されるのは分かっているのに、よくも飽きずに新しい彼氏を作ろうと思えるなと感心する。
 彼が店を出るのを確認すると同時に、携帯電話を開いた。
 連絡先を消せと言われたのは今日が初めてだな…。
 連絡先を削除します、よろしいですか?と聞いてきた携帯に、何の躊躇も無くはいと答えた。この際、今まで付き合ったきた人の連絡先もまとめて消しておこうかと思った時、ガラス製のコップが割れる音が店内に響き渡り、フロアの雰囲気を作り出すBGMのピアノジャズだけが客席に残された。
「ふざけんなよ」
 静かに店内に響いた女性の声に、全員の視線が集中した。そこには声の主であろう席から立ち上がった女性と、その迫力に気圧される男性。見たところ、両者共大学生くらいで、今年二十四になる私より少しだけ若いように思う。
 女性の方が目に涙を浮かべているのが伺えるあたり、
「みんな一番って馬鹿じゃないの?世の中の女の子は、あんたみたいな一人の男に愛されたいなんて一ミリも思ってない」
 確実に修羅場だ。今の言葉から察するに、相手は相当な浮気者のようだ。
 すると、さっきまで気圧されていたはずだった男がテーブルに手をつき立ち上がった。逆ギレに近い反論が繰り広げられるものだと誰もが思った。
「思ってないのはいいんだよ。でも俺たち男には関係ない。素敵な女性がこの世界にはたくさんいるのに、それを愛さないなんて最低な選択肢があっていいのか!?」
 どうやら、コントか何かが始まってしまったようだ。しかも、男である彼が身も蓋もない偏見を語り始めた。彼の言葉を鵜呑みにして、男性というのはそういう思考を持っているのだと納得するような人もいない訳だが。見ている側としては何も被害は無く、面白いものとして見ていられるが、面と向かって言われている彼女の事を考えると、周囲の視線の痛さはかなりのものだろう。
「いや、そんな事があっていい訳が無いだろ!?お前だって、それはそれは可愛い俺のコレクションなんだよ。一人じゃ物足りないからたくさんの人を愛したいんだ」
 誰がどう聞いてもラブコメに出てくる馬鹿要員の台詞だ。ただ、この場にいる誰もが馬鹿馬鹿しいと思ったであろう台詞を、私だけは、何故か真剣な言葉として受け取ってしまった。
 どうかしている。彼の言葉を真剣に受け取った時点で、自分がおかしいというのに気付かない訳が無かった。
 席を立った私は、口論を続ける男女にどんどん近付いていく。ざわめきが大きくなっているのは十分分かっていた。視線だって、口論をする二人へのものより、私へのものの方が鋭いのが感じられる。誰もが私を、修羅場の恋人らの仲裁役に買って出た物好きな女だと思っただろう。だが、私のしようとしていた事は、物好きの度を遥かに超えていた。
 口論を続ける二人のテーブルに着くと、男の前で足を止め、女の方には目もくれず、まじまじと見つめてみた。見つめるというよりは、睨むという言い方をした方が正しいかもしれない。
 間近で見ると、それはそれは確かに容姿端麗で、一対一で話したなら虜になるのも当然だ。女たらしというボロが出なければ非の打ち所が無い男性なのだろう。世の中にはきっと、こういう惜しい人がたくさんいるんだろうな、としみじみ思った。
 あんた何なの?などといった女の声はかろうじて聞こえていたが、そんなものは私が気に留めるものでは無かった。
「私と付き合ってよ」
 私はワイシャツの胸ぐらを掴みぐっと彼の顔を引き寄せると、彼の唇に自分の唇を重ねた。周囲のざわめきが耳に心地よく、高揚感に酔いしれた。
 振られていくうちにだんだんおかしくなってて、今日完全にいくつものネジが外れたのかもしれない。
 私は、実に滑稽な女だ。
 修羅場の最中にも関わらず、突如現れた見知らぬ女に彼氏の唇を奪われ怒りに震えた彼女は、すぐに彼と私を引き離して、私の胸ぐらに掴みかかった。金切り声な上に泣いているので、さっぱり何を言っているのか分からない。とりあえず何か言い返さないとと思って、もう別れるんだから関係無いでしょと発した言葉が地雷になったらしい。直後に、もはやモスキート音レベルの声が私の耳に響いた。髪を鷲掴みにされ乱されて、脳震盪を起こすんじゃないかと勘違いするくらいの衝撃を与えられたのは当然の報いで、付き合った人と一生長続きする事が無いなら生きる価値は無いし、死ねるならここで死んでもいいかな…なんて思った。
「何してんの!」
 彼の、おそらく恋人に対する声が脳全体に響いた。
 突然キスをしてきた訳の分からない女に腹は立てたものの、自分の代わりに彼女が怒りをぶつけ始めたそれを眺めていたが、さすがにこれ以上はまずいと思って止めに入ったんだろう。彼女想いで羨ましい…なんて一瞬思ってはみたが、恋人に想われている人が羨ましい事なんて今まで生きてきた中で一度も無かった。
 今度は彼女の方と引き離され、手首を掴まれて、最後に一発止めを刺されるかと身構えた瞬間。
「行くよ!」
「…え?」
 何が起きたのか理解出来なかった。言った瞬間、彼は店を飛び出し、どこへ行こうというのか私の手を引いて走り続けた。手を強く握られている感覚も手から伝わってくる熱も、全てが新鮮で、その新鮮さに胸が高鳴るのを感じた。胸がときめくというのは、きっとこういう感覚の事を言うんだろう。
「なんで飛び出したりしたの?」
「んー…わかんない」
 カフェを出てしばらく走ったところにある公園の芝生に腰を下ろした私は、寝そべって呼吸を整えている彼の返事を待った。
「君を守る為かな」
 恥ずかしそうな素振りも見せずに、爽やかな笑顔で彼は言った。
 こういうかっこよさげな、キザだったりする言葉を言ってしまえるから、夢中になる女の子がたくさんいるんだろう。
 世の中には馬鹿みたいな男がいるものだと思って、阿呆らしいと呟いた。
「あのままあそこにいたら今頃大怪我してたかもしれないのに」
「あんな事するのに、無事でいたいって思う方がおかしいでしょ。病院送りにされるかもっては思ってた」
 むしろ病院送りにされたいから、あんな行動を起こしたのだろうと思う。
「でもまあ、男の人に手を引かれて街中走るなんて、恋愛ドラマみたいで楽しかっ…」
 楽しかったと言い終えかけていたその口は、彼の唇によって塞がれた。すぐに飛び退いたが、目を丸くされてさらに動揺する。何?と叫んで、口を覆い隠した。
「いや、可愛くてつい。…っていうか、君の方がだいぶ大胆な事してくれてるんだけど?」
 それとこれとは話が別でとしようの無い言い訳を始めようとした時、やっとカフェにいたつい先刻の自分の頭のおかしさに気が付いた。どこかに飛んで行っていたネジが、一気に戻ってきたらしい。病院送りにされていないのは良かったが、今ここに無事でいられているせいで、余計に恥ずかしい。穴があったら入りたいとはまさにこの事だなと、熱を上げる顔と反対に、冷静に思っていたのが不思議に思えた。
「じゃあなんであんな事?」
 正気に戻った今、理由を考えてそれを口にするのは、またすごく恥ずかしい事だが、彼と同類の頭がおかしい奴だと勘違いされるままになるのは御免だ。自分の中に、そういう行動を起こせる部分があるのは否定できないが。
「どうしても貴方と付き合ってみたかったんだと思う。キスしたら、その相手の子が可愛く見えるようになるらしくて。私なら、貴方の浮気を許してあげられるよ」
 何を偉そうに、この上なく私らしくない事を口走っているのか。
 好きかも、という四文字が微かに聞こえた後、また唇を重ねられた。もう動揺なんてしないし、もはや呆れるだけだ。
「じゃあ今ので三倍くらい俺がかっこよく見えるようになった訳だ?」
「そういうのは言わなくていい」
 上辺だと分かるような笑顔を浮かべてみると、釣られに来たように見せて釣れない子ってなかなかいなくて新しいな…と呟いた。その言葉は少々気にかかるものだったが、彼がイカれているのはカフェの時点で分かっていたから、特に気にとめる事でも無いと判断した。
「そういえば名前は?俺は名取彰」
「堤仁華」
「仁華ね。今日から俺の一番目のお姫様にします」
「はい。どうぞよろしく」
 少し胸がざわついたが、そのざわつきが何から沸き起こるものなのか分からなかった。でも、浮気していいからなんて言っている時点で、自分の決断を正当化できないのは分かっている。心の中に出来る多少のしこりを気にしていては、この関係は成り立たない。
「…っていうか、彼氏と一緒じゃなかったっけ?」
 その質問は今更すぎて、なんで知っているのかと聞き返してみた。
 店に入るとすぐさま店員から客まで確認できるところは見回した彰は、私が好みの子だと目星をつけたが、あろうことか彼氏連れで、悲しみに暮れていたそうだ。修羅場になる気配も察知せずにそんな事をしてしまえるなんて、あの演説の通り本当に全世界の異性を愛しているのだなと、呆れを通り越して感心する。
「別れたの。っていうか相手の浮気は気にするんだ?」
 別れ際の温度差や破局の原因は全く違えど、同じ場所で別れ話をしていた私は正直に言った。
「俺のになってくれるのは嬉しいけど、他に彼氏がいたら申し訳無いでしょ」
 かっこいいじゃんと一瞬は思ったものの、その無駄な律儀さを相手の身になって交際に生かしてくれないものかと思った。まあ、この私にはそんな今の彼がちょうどよくて、満たされた気持ちで彼を見つめる。
 彼は、この時の私が自分のような男なら誰でも良かったのを、私は、彼が女の子なら誰でも良かったのを、きっと同じように理解していた。