棘と蜜 1

〝次のニュースです。東京都八王子市の山中で白骨遺体が発見され、死体遺棄事件として捜査が進められていた事件で、今朝未明身元が判明した事が分かりました。遺体は一年以上前に誘拐失踪事件として報道された、東京都中野区に住んでいた加藤真子さんで…〟

 目が覚めてベッドの脇に置いてあるテレビをすぐつけるのが起床からの一連の流れになっているのだが、そこで報道されていたニュースに僕は目を見張った。女子アナウンサーは数多ある死亡事件のニュースとして、落ち着いた口調で原稿を読み進めている。

 彼女の死を受け止めなければいけないのは運命なのだろう。ただ、行方不明だと報道された時点で彼女が亡くなっているかもしれないのは想像していたから、驚きはしなかった。人が人を殺すという事件は毎日どこかで起こっていて、こういったニュースを見ると自分もいつか知らないうちに誰かの恨みを買って殺されてしまうんじゃないかと思わされる。

 ふと視線を下に落とすと、すぐ側で僕の恋人が眠っていた。長い睫毛、くっきり出た二重瞼、白い肌、昨夜触れていた唇は艶やかで、幸せそうな寝顔を見ているだけで、今日も僕は幸せだと思える。額を撫でてみると、肩をすくめて小さな唸り声をあげたのが愛おしかった。

 

 

 僕が彼女と付き合う事になる出来事が起きたのは今から一年ほど前。行方不明になった、当時付き合っていた彼女のアパートの前で、ぼんやりとその一室を眺めていた時だった。

 ニュースや新聞で行方不明事件は何度も目にした事があったが、自分の身近にいる人物が行方不明になったのは初めてだった。何が起きたのか理解出来ず、その状況を素直に受け入れる事も出来なくて、毎日彼女のアパートに行って、彼女が部屋から出てくるんじゃないかと毎日通い続けていた。

 彼女の行方が知れなくなって一ヶ月半ほどが過ぎていたその日、激しく地に打ち付ける雨が、更に悲愴感を掻き立てていた。

「久世…、陽斗君?」

 後ろから女性の声で聞こえたのは僕の名前で、振り返ると、彼女の幼馴染で僕自身も顔見知りである秦叶衣がいた。

「もしかして毎日来てるの?」

「うん」

 と答えると、そっかと静かに呟いて僕の隣で足を止めた。

 雨が僕等の心を繋いでくれているようで、同じ悲しみを確かに共有している。行方不明だと報道された事件の結末は今までいくつも見てきた。それでも僕等は、彼女が無事でいるのを信じて待っているんだ。

「真子がいなくなったの、覚えてる人がいると思わなかった」

「忘れる訳無いよ」

 大切な人だったんだからと心の中で付け足して彼女の部屋に視線を戻した時、叶衣の指が僕の手に触れた。驚いて隣を見ると、彼女は瞼を強く閉じて全身を震わせていた。

 同じ大学を目指していた真子と上京してきた叶衣は、別の場所で一人暮らしをしていて、幼馴染が行方不明になった事への悲しみを同じ温度で共有できる人が身近にいなかったんだろう。ここで僕と会って初めて、普段は殺していた感情が込み上げてきたのではないだろうか。

 僕は自然と彼女の手を強く握り締めていた。

「見つかるって信じようよ」

 涙を見せないようにか、寄り掛かってきた叶衣の身体は、実際よりもとても華奢なもののように感じられた。

 それが彼女の姿が更に僕の心を奮い立たせ、そして魔が差す。

 時に人間という生物は、日常の中で希望を見失いかけた時、本能に全てを任せようとする事がある。自分の心が満たせるのなら、愛していない相手でも構わないと。ただ僕の場合は、僕自身と彼女の悲しみや寂しさによる虚無感を消してしまいたかった。

「今日、一緒に晩飯行かない?」

 肩に預けていた頭を起こして、ゆっくり見上げてきた彼女の頬はほんのり赤くなっていた。視線が合うと同時に自然な速度で逸らされて、うんと短い返事が返ってきた。

 もしかしたら、僕の目論見は一瞬にして見透かされたのかもしれない。だが、彼女が気付いていない振りをしたのか何も言ってこなかったので、僕も気付かれていないと思っている振りをした。

 父の趣味の美術館展巡りに影響された僕は、幼い頃に描画が好きになった。中学高校と美術部に所属し、絵画にのめり込もうと芸術大学の美術学科に入学する事にし、そこで出会ったのが同じくこの大学に進学を決めて上京してきた加藤真子だった。お互いの描く作品に惹かれた僕達は、次第にお互い自身にも惹かれていった。交際に発展するのも早く、日に日に頼れる存在になっていった。同じ東京ではあるが別の大学に進学し、共に上京してきた幼馴染だと紹介されたのが秦叶衣だった。真子と叶衣と三人で出かけた事も何度かあった。

 そこまでの関係で終わると思っていた彼女を、僕は今この手で抱いている。人の肌に触れるのは久しぶりで、その温かさに涙が滲んで来た。

 満たされた夜だった。彼女より先に目を覚ました僕は、彼女の寝顔を見ながら昨晩の余韻に浸った。

 駅前の居酒屋に入って、二人してどんどん呑んでいった。お互い真子の事をひたすら嘆いていた気はするが、何を話したかはっきりとは覚えていない。勘定は僕一人で持ったのはなんとなく覚えているし、僕より酔っていた彼女を支えながらタクシーを拾って自分の家の住所を伝えた。今こうしてベッドに腰を下ろしているのが無事家に帰ってきた証拠だが、彼女に何をしたかという肝心なところを思い出せない。微かに覚えているのは、今も彼女から香る、摘みたての花をそのまま飾ったような香りが、僕と彼女を包んでいた事だけだ。

 罪悪感に包まれるのを分かっていない訳では無かったが、酒を入れたのは間違いだったと後悔する。

「昨日ね、そんなに酔ってなかった」

 布団に包まって背を向けたまま、叶衣が呟いた。その言葉に、僕が相当な事をしてしまったのを自覚して自身に呆れるしか無かった。だが同時に、彼女の事がとても可愛いと、すごく愛おしく思った。

「次会う時返してくれたらいいから、合鍵持ってっていいよ。バイト行ってくる」

 目を覚ましてから横顔を見せるだけの彼女の髪に、そっとキスを落とした。

 バイトが終わる頃には彼女はいなくなって元の関係に戻るだろうと表面上では思っていたが、一線を越えてしまった僕等の関係が今までと変わってしまう事も想像していた。