僕の体を濡らした雨は、ポタポタと滴り落ちていく。鼻の先から、顎の下から、胸の辺りから。太陽の沈んで黒雲で覆われた空は、地響きを起こしながら光と共に僕を追いつめようとしているようだ。今朝の予報では、夜は星が見える程晴れるだろうと言われていた。この雨が神様の仕業だとしたら、その雫が体温を奪って、僕の命を奪おうとしているに違いない。
 涙なんて僕の目から出る訳が無くて、地面に出来た水溜まりに映る、自分の本当の姿をじっと見つめた。そこにいる自分は、実に醜くて、無力の塊だという事を自覚させた。
 彼女は最初から別人だと気付いていた上で、彼とそっくりな僕に、一緒にいてほしいと願っていたのだろう。そうさせる程、彼女にとって彼は特別な存在だったのだ。そして僕が余計な事をしたせいで、二度目の孤独を味わわせてしまう。何もかもを失った僕に存在価値は無くなって、直に雨に殺されるんだ。
 ぴしゃ…という音と共に、先端の丸いブーツが視界の隅に降りて来た。
「どうしたの?黒猫ちゃん。何か悩み事があるようだけど」
 高く透き通った男の声が聞こえると同時に、空からの襲撃が途絶えた。顔を上げると、二十二、三歳の人間。緑青色の目をしたそいつは、まるで人にするように、ローブの袖口から水を滴らせながら傘をこちらへ向けている。
「君は過去を変えたい?」
 そんなの決まってる。変えられるなら…
 にゃっ…と口から出たその鳴き声に、自分が人の言葉を喋れない事に気付く。
「変えれるものなら変えたいよね」
 僕の心の中が見えてる?
「人間は無理なんだけど、それ以外の言葉が通じない生き物の考えてる事は分かるんだ。自分でも不思議だよ」
 そう言ってくすくすと笑いながら、びしょびしょになった僕の頭を撫で回した。
「さて、と。ここにいると濡れちゃうし、僕の家に案内するよ」
 僕をひょいと抱き上げた青年は、片手で傘をさし、もう一方の手で僕の体をしっかりと支えて街の方に歩き出す。迷う事無い足取りで路地に入っていった。街灯がだいぶ少なくなって、レンガを積んで作られた大きな黒い壁が道を塞いだ。
 彼は懐から鉄製のリングにまとめられた鍵を取り出す。一つは、持ち手になる部分が欧風の時計になっている。その鍵を扉があるかのように宙で捻ったその瞬間、壁から突風が起き、光沢のある鉛色の手が現れた。握手を要求しているように見えるその手はあまりにも不気味で、自分の体がおののくのが分かる。一体何が起こるのか想像する隙も与えられず、たちまち〝THE WINDUP〟と書かれたドアが姿を現す。彼の細い腕で開けられたドアの中に入ると、大理石で仕上げられた土間があった。
 部屋に入ると、彼は先程までと変わらない口調で戻った事を伝えた。すると、可愛げのない女の声がおかえりと迎える。まず目に飛び込んできたのは、吹き抜けになっている天井に、吊り下げられているシャンデリア。欧州の豪邸にあるような広間が広がっている。
「あれ、チェニだけ?お客様をお迎えに行ったんじゃなかったの?」
「ちゃんといらっしゃってるよ」
 え?とその子が首を傾げながら、デスクの上からひょっこり顔を覗かせる。薄紫の髪をした少女が、金色の目でこちらを見ている。
「猫って、いつになく珍しいお客さんね。…そうならそうって早く言ってよ。私は君と違って動物とおしゃべりできないの」
「ごめんごめん」
 きっと、こういうのをわがままなお嬢様タイプというのだろう。黙っていれば可愛いと人間同士の間で言われる類いの人間だろうか。そんな彼女が、気怠そうな目で僕を見てきたかと思うと、溜め息をつきながら掌をこちらへ向ける。その手が滑らかな動きで、円を描き始めた。すると僕の体は宙に浮き、きらきら光る粒子が周りを浮遊する。自身の体が回転を始め、だんだんと速度が上がっていくのについていけず、ついに気を失っていた。遠のいていく意識の中で、青年の叫ぶ声が聞こえていた。
 目を開けると、横たわっているようでシャンデリアが目に飛び込んできた。
「私はネア。どうぞよろしく」
「…じゃないでしょ、驚かせてごめんね。にしても早くに目が覚めてよかったよ、…ああ、僕はチェニ。体の調子はどう?」
 声をかけられると同時に、自分がソファに寝そべっている感覚にどこか違和感を覚え、自分の体へと目を遣った。
「これは一体…」
 猫のままじゃ話せないから、と僕の言葉は彼女に遮られた。
「あなたもその方が都合がいいでしょう」
 ネアは湯気の立つ紅茶の入ったカップを回しては飲み、回しては飲みを繰り返している。僕はどうしていいか分からず、自分の手をじっと見つめてみた。何の変哲もない長く伸びる五本の指が生えた手、ソファにおろした腰から生える二本の体をしっかり支える足、どこからどう見ても人間だ。
「ところで、この部屋に入ってきてから何か不思議に感じていた事はある?」
 そう言われてみれば、かなり気になっていた事が一つ。すごく優雅な空間に見えるが、どうしても存在を無視する事が出来ない茶色の壁に張り巡らされた数百個もの大小様々な時計が、異様な空間を作り上げている。それらはいびつな形をしていて、その全てが針を持たない。それが何とも言えない違和感を与えている。
 それをそのまま口にすると、さすが猫だね、とチェニが久しぶりに口を開く。やはりこの壁は普通ではないのかと不思議に思いながら部屋を見渡していると、ネアがカップを置いてここは…と切り出した。
「時間と空間の狭間。私の仕事は、ここで現実世界を生きる者に人生をやり直すチャンスを与える事」
 僕には秒針の無いように見える時計だが、資格の無い者には時計の一つ一つに針がついているのが見えるという。全ての時計の秒針が時を刻む音は、想像を絶する騒音で、耳をつんざく程の威力らしい。壁に組み込まれている時計は世界に存在する時間であり、時の流れに耐えきれない者には資格さえ与えられない。全てを悟るのは時間の神〝クロノス〟が宿るこの家そのもので、認められた者だけに過去を変えるかどうかの選択肢が与えられる。
 彼女はそう説明するが、いまいち理解出来ない、出来る訳が無い。
「…資格が無いのにどうしてここに連れて来られるんだよ。辛い思いして帰される人も多いんじゃないの?」
「私達は過去に戻りたいっていうお客さんの声が聞こえるだけだもの。一時的に、心の底から過去に戻りたいって思ったのかもしれないでしょ。私達はともかく、当人が生涯悔やみ続ける程の現実じゃないと、クロノスは応えない」
 ネアが指を鳴らすと、おびただしい程壁に埋め込まれていた時計が、その姿を消した。
「さ、君はどうしたい?」
 僕を見つめる彼女の笑みに優しさは感じられない。
 時間の神とやらに選択肢を与えられた事が、どれだけすごい事なのか、僕には分からない。それどころか、彼らの言動は理解に苦しむものばかりだ。けれど、僕は得体の知れないこの人達の言う事を信じるしかないんだ。
「僕はそのチャンスを掴む」
 彼女の目を見て真っ直ぐ言った。僕のその言葉は、決意は、決して変わりも揺らぎもしないものだ。
「あー…もう、疲れた。人生やり直せるよって言うだけじゃだめなの?ねえ、チェニ」
「ねー」
 僕の決意は無視か。特にチェニ。
 ここに覚悟を決めた客がいるというのに、へらへらと笑顔を浮かべている。そのせいで一気に緊張の糸が解れて、柔らかいソファに背を投げた。そんな二人は放っておいて、紅茶とはどんなものだろうと飲もうとしたら、思っていた以上に熱くて舌を火傷してしまった。さすが猫舌で有名な猫ちゃん、人間になっても猫舌なんだ!なんて二人して笑ってくる始末だ、怒りを通り越してもう飽きれる。
 猫ちゃんと呼ばれ、まだ何かあるのかと顔をしかめると、ネアが満足げな笑みを浮かべていた。
「あなたのそのネジ、巻きましょう」
 客の時計のネジを巻き戻す、それがここ、ねじまきや。

 

 

 

 

5ヶ月ほど前にプロローグとしてこの部分だけ書いてました。

チェニのCVは石田さんだといいなって思いながら。

 

今思うとそんなに好きじゃないからこのまま蹴ろうと思ってるけど

とりあえず貼ってみます。