泡沫の彼 2

「退院おめでとう」
 彼に別れを告げて一週間後に決まった退院の日、病院を出た私の前に忽然と姿を現したのは、意外にも彼だった。退院祝いも持たずに手ぶらだけど、彼がここに来た事が私にとって最高の贈り物だ。
 状況を飲み込めず、本当に智希なのか何故ここにいるのか、思ったままを言葉にすると、得意げな顔をして口を開く。
「水族館行くって約束しただろ」
 他愛の無い会話の一つの中の小さな約束なんて、あの時に消えてしまったものだと思っていた。それだけでなく、事故に遭ってから彼と過ごした時間全部が、私の中で跡形も無く粉々に崩れ去っていった。彼が来ない日々が重なるほど、欠片さえ何処かに行ってしまうように無という感覚に飲み込まれていく。傷付いた心は、時が解決してくれるものだと思う事しか私には出来なかった。
「ここに来ないでって言ったよね?」
「病室に来ないでって事だと思ってたんだけど、違った?」
 計算なのか本気で言ってるのか知らないけど、この人の無神経さに救われて、胸を撫で下ろした。違わないと思うと言うと、自然と笑いが込み上げてきた。
 あんなに悔やむならどうして突き放してしまったんだろう。後悔していた自分も気にせずここに来てくれた彼も、救いようの無い馬鹿だ。貴方が何を考えているかなんてどうでもいい。目の前の相手が何を考えているか分かる人間なんていない訳だし。
「何笑ってんの?」
 素敵だと思う人が隣にいるだけで幸せな事だと思っているのが顔に出ているとは思わなかった。
「私も智希君も馬鹿だなあと思って」
「年上馬鹿にしてるとあとで痛い目に遭うぞ」
 智希はそう言いながら、私の引き摺っていたスーツケースを取り上げた。有無を言わさない振る舞いに惑いながら、歩幅の大きい彼に合わせて大股で付いて行く。
「水族館いつ行ける?空いてる日は?私はいつでもいいよ」
 笑顔で彼の顔を覗き込むと、こちらを見ず無表情のまま、今日というストレートで突拍子もない答えが返ってきた。
「は?…あ!ごめん!いきなりそんな事言い出すから吃驚しただけ」
「今日のチケット買ったんだよ。嫌って言うなら、…別にいいよ」
「ううん、行く!行きたい」
 今日行くつもりだったなら教えてくれれば良かったものを今の今まで黙っているからややこしい事になるのだ。
 子供っぽい強引さを見せてきたところなんかは私の記憶の中の彼に近付いてきている。一から関係を築きなおしているというより、何も知らないゼロの地点から色々な事を学んで人間らしくなっていると言った方が正しい気がする。
 今から水族館に行くのはいいが、私はある一つの事を気にしていた。クラゲが見たいベルーガの輪っかが見たいとはしゃいでいる彼を見ていると、彼からすれば私の考えている事なんてどうでもいい事だと自分の中で解決した。
「十六時だなんて…俺は信じないぞ」
 それは、私が気にかかっていた唯一の問題だった。水族館に入ると、智希は着いたのが十六時という現実に絶望し、入場口からすぐのところのベンチに座り込んだ。移動時間を計算すれば、この時間になってしまう事なんて安易に想像出来た筈だ。
 ここで馬鹿だと言うと更に沈み兼ねないので、そこは口を噤んだ。
「そんなに楽しみだった?」
「まあ割と」
「私は別にいいよ?」
 落ち込み様が甚だしいのは、私が色んな場所を見て回りたいと思っていたからだろうか。だとしてそれを言わないのは意地を張っているから、とか。
 パンフレットを適当に見ながら彼をなだめる。智希が言っていた動物の名前に目が止まり、あ!と大声を上げてしまった。
ベルーガのショーもうすぐやるって!輪っか出すやつ見たいんだよね?見れるのこの時間だけかも。行こ!」
「…行く」
 一日中いられないのなんて分かりきっていた事で今日のチケットを買ったのは自分なのに、子供のように口を尖らせて言った。そこに向かって歩いている間も、拗ねているのか俯いたままだ。ショーが始まると先刻までの表情が嘘だったかのように目を輝かせて、ベルーガに釘付けになっている。
 前に来た時もこんな表情を浮かべていた気がする。
「悠那悠那!今の撮った!?」
「ばっちり」
 彼の方を見ようとして、私は唖然とした。しゃがんでいるとでも脳が勝手に思い込んだんだろうか。右隣に立っている智希の顔を見ようとした時、自然と下に視線を落としていた。何故だかとても怖くなって、彼の手に触れてみる。すると、何も言わずにそっと手を握り返してくれた。ショーが終わってからも、繋いだ手は解かずに館内を回った。
 タカアシガニマンボウカクレクマノミ、エイ、アシカやセイウチ、様々な生き物を見て一緒にはしゃいだ。
 エトピリカを目にしたのはお互いに初めてだったようで、水中を泳ぐ姿を見て、プテラノドンに似ていると言い出した。どんな生き物だったのか聞いてみると分からないと言うので、少し馬鹿にして笑ってみた。
 こうしていると、なんだか恋人同士みたい。
 ただ、あの後も彼の方を見ようとすると下を見てしまう事が何度もあった。この場所には、私の知りたくない何かがあるような気がして仕方無くなっていた。
「あ…!」
 ずっと病院にいたせいで体が本調子に戻っている訳も無く、ベンチで休憩しながら、パンフレットを見ていると一番見たかったものの存在を思い出した。彼ももう動きたくないといった様子だ。焼ける様な夕焼けを見ていると、疲労感が増すようだ。
「鯱のショーが見たかったの。最後十八時からだ、行こ!」
「よし、行くか」
 一度離した手をまた繋ぎ直すのは少し気力がいって手を伸ばせないでいると、いい席なくなってるかもしれないから走るぞと彼の方から握ってきた。手を引いて走ってくれているのが幸せで、ちょっとだけ勘違いしたくなる。
「一番前ちょうど二席空いてるじゃん」
 疲れきっていたようだったのに、元気を取り戻して、鯱がかっこよくて楽しみだとまたはしゃぎだした。こんなに楽しそうにしている彼を見るのは初めてで、私はそんな彼を見ているのが一番楽しいと感じている事に気が付いた。
「いいの?でも降りられな…」
「何?降りれるけど」
 階段を降りながら、私の言おうとした事の意味が分からなくて不思議に思った。
 本当に、一体どこに降りられない理由があるって言うんだろう。
 椅子に腰を下ろすとすぐにトレーナーがステージに出てきて、ショーが始まった。華麗にプログラムをやってのけていく鯱を見ながら、隣にいる彼の歓声を聞きながら、前に彼と見ていた事を思い出していた。
 次の大技では水が飛んでくると注意を促された。私も大好きだったその技は、やはり一番人気なようで実演される前に既に歓声があがる。鯱が勢い良く飛び上がって出来た水飛沫が、私の視界の中で、頭の中で、きらきらと瞬いた。それが、鯱が水面にぶつかって大量の水を弾き、一瞬にしてずぶ濡れになる。
 ああ、思い出した。
「大丈夫?」
「私、一人で見てたんだ」
 髪や服を濡らして茫然として、ショーが終わって誰もいなくなったのに立ち上がれなくなっていた私に、楽しそうに聞いてきた彼の質問に答えられる余裕は無かった。
「智希君は車椅子だった。車椅子で階段を降りられる訳が無いから最初は上から見てたけど、間近で見たいって思ってる私に気が付いて、次のやつは前で見てきたらって言ってくれて。それで私、一人で水飛沫を浴びたの」
 体を自由に動かす事の出来るという点で私の記憶と違う、顔も声も瓜二つな彼の方を見てみると、その彼の目からは光が消えていた。
「智希君…?」
 何の応答も無く、目の前で起きている状況が理解出来ない。事故の前と後に私の目の前にいる智希君は同じ人?どこからどこまでが本当の事?聞きたい事がたくさんあるの。そう口にしながら肩を揺さぶっていると、動かなくなった彼の体は地面に叩きつけられた。
 地面に横たわったその姿を見て脳裏に浮かんだのは、頭から流れてきた血が目に入ったのか、赤い視界の中で横断歩道に横たわる彼。彼の体は血塗れなようにも見える。脇には車椅子が転がっていて、すぐ側で車のヘッドライトが私達を照らしている。これは一体…?
 何を見たのか分からなかったが、一瞬にして思い出し、私は涙を流して絶叫した。罪悪感と悲愴感が襲い掛かってくる。
 父の経営する病院に入院していた貴方に出会った事、恋をした事、結婚したいと思っていた事、そんな体では病院をつげないし私を養っていく事も出来ないだろうと父に反対された事、それでも一緒にいたいと思った事、…それが許されないなら、貴方と死のうと思った事…。
 悠那となら死ぬ事も怖くないって言ってくれた智希を乗せた車椅子を押して私は…。
「私だって、本当は、貴方と生きたかったよ…!」
 そう叫んだ瞬間、彼から何かが起動するような機械音が聞こえた。今の音は何だったのだろうとしばらく様子を伺ってみるが何も起こらない。
 事故に遭った彼が、私より回復して、元々の病も治って健全な体になる訳無い。でも、私が見ていた彼は、…少なくとも今日一緒にいた彼は、確かに本物だった。
 ふと彼が病室で眠っている姿を思い出した。もしかしたら今もいるかもしれないなんて、どうして思ったんだろう。
「もしもし、お父さん」
 携帯電話で父に電話を掛けた。私が倒れていた側に彼がいたなら、父が知らない筈が無いと踏んだからだ。あれほど反対していたのに面会したいという彼を私の病室に入れていた事だって妙だ。私がやけに落ち着いていたのは、希望の持てる何かを父が知っているのに確信が持てていたからだった。
 一緒にいた智希が突然倒れた事を伝え、私が彼を好きだった事や彼と共に事故に遭った事を思い出した事を伝えた。
『分かった、話そう』
 しぶしぶ話し出した父の話は、はいそうですかなんて簡単に信じられるものでは無かった。
 事故に遭った彼は、元々体が弱かった事もあり、一命は取り留めたものの昏睡状態に陥ってしまった。このままでは植物状態になる可能性が大きい。それを知らされた技術者である智希の父が、彼に瓜二つのロボットを作った。そのロボットは、昏睡状態である彼の脳に蓄積されている記憶や言動の基礎を引き出す事で、智希を再現出来るものだったと言う。そして、この体になってから幸せだし生きている理由も無いと思っていたけど悠那が俺の側にいてくれるなら生きたいって思ったんだと、事故以前に話していたのを思い出した。植物状態なら、脳が生きていても心臓が動いていても、智希本人にとっては意味は無いのだと気が付き、一つの機能を施した。
「動いてよ。お願いだから、智希君と一緒に生きたいの…」
 その彼と瓜二つの精密なロボットに、何も知らない状態で悠那が智希に惹かれ、共に生きたいという意味合いの言葉を伝えれば、昏睡状態から意識を取り戻し、ロボットと同じように自由に動く健全な体を手に入れられるというもの。悠那が記憶を取り戻して想いを伝えるのはロボットが一体何者なのか聞いてしまうと、その時点でロボットは停止してしまい、その機能も停止する。そして、期限は、ロボットと悠那が初めて言葉を交わしてから一ヶ月。それが今日だったという。何も起こる事無く期限が来ていたら、ロボットは突然起動を停止し、智希は生涯植物状態に陥る事になっていたそうだ。
 起動が停止した原因は、私が車椅子だったという事を伝えてしまった事だった。水族館になんて来なければ思い出す事なんて無かった、そもそもどうして彼と死のうなんて考えてしまったんだろう、…結婚出来ないとしても一生友達で一生隣にいられれば良かったんじゃないの。
 お願いだから一緒に生きたいって言わせてと、涙で歪む彼の胸を必死に叩き続けた。
 出会わなければ彼を死なせる事にはならなかった。過去をもう一度やり直せるなら、私は間違いなく彼と出会わない選択をする。
「本当に似てる…」
 智希の事を一番知る彼の父が作ったロボットとはいえ、その姿は生きた標本のように触った感触も人間の肌で、驚く事に細かいところまで瓜二つだ。
 瞼を閉じて、停止したロボットにキスをした。車椅子の彼と過ごした日々はそれでも楽しかったけど、体を自由に動かせる彼とのデートはこんなのだったのかなって考えると、私のとんでもない我が侭で生まれて死んでしまったその時間がとても愛おしくなって、涙が溢れてきた。
 唇を離して、ゆっくり目を開けた。するとそこは病室のベッドに腰を下ろしていた。先刻まで確かに水族館にいたのに、停止したロボットの姿も見当たらない。状況を飲み込めないまま辺りを見回していると、勢い良く病室の扉が大きな音を立てて開いた。
「悠那大丈夫!?」
 全く同じものを私は見た覚えがある。意識が戻った事を知った彼と、事故後に初めて顔を合わせたその時だ。彼と瓜二つのロボットと初めて会ったであろうあの時。
 今まで私が見ていたものは全て夢で、これから起きるのが現実…?だとしたら、私は彼から聞いた話を聞いて親しい友人だった事を思い出し、
「誰ですか?」
 前崎智希という名のロボットに惹かれるんだ。何も知らずに。