棘と蜜 2

 玉ねぎとわかめを入れて作った味噌汁の沸きだして渦巻いている様は、まるで僕の心を映すようで腹が立つ。フライパンに薄く広げられた卵の焼けた匂いと、淡く優しい綺麗な黄色が、そんな僕の心を落ち着かせた。

 近付いてきた足音が途切れ、視界の隅に台所を覗き込む影が映り、おはようと笑顔で声をかけてくる。

「おはよう。さっきニュースでやってたんだけど、白骨遺体の身元が分かったんだって」

「…なんでそんな話?」

 彼女を見てみると、不思議そうに目を瞬かせていた。真子が行方不明になって一年も経つし、ニュースで度々真子の名前が読み上げられている事はあるが、それが聞こえていない振りをしたくなるほど辛い事なのは僕も同じだ。

「いや、白骨遺体が出てたのさえ今初めて知って結構衝撃的だったから、今日一日忘れられそうになくて、口に出しといただけ」

 少し笑ってみせたが、彼女は目を瞬かせたままだ。

 嘘を吐いてしまったのは、彼女にすぐに知られて傷付ける事を恐れた為だろうか。今隠したって、どうせすぐ伝わってしまう事なのに。

「何それ、意味分かんないんだけど」

 弁解しようとしたら、笑いながら台所を離れて行ってしまったので、それで良かったのかと今度は僕が不思議に思わされた。

 一人残された台所で再び朝食の準備に取り掛かる。卵を切り分けようと包丁を入れていったが、先刻まで綺麗に見えていた筈なのに酷く燻んで見えて、白米の炊き終わる音を引き金に、その一切れを菜箸で勢い良く刺した。小さい嘘を吐いた自分が気に食わなかった。

「あれ、陽の卵焼き一個少ないよ」

 お皿に取り分けたそれを食卓に持っていって座ると、数が合わないのがバレてしまった。

「切ってたら奇数になったから。叶衣が食べていいよ」

「作ってくれてるのに、そういう訳にはいかないです」

 もちろん嘘だ。形を無くした卵焼きを彼女の目に触れさせるのは気が引けたので、食べれば良かったものをむしゃくしゃした勢いに任せて捨ててしまった。

 口の中のものを飲み込むとすぐに、ほらと声をかけられ、半分になった卵焼きを口に突っ込まれて反射的に口を閉じていた。数が合わないなら一個を半分にすればいいだけじゃんと笑顔で話す叶衣の純粋さに触れると、僕はここから消えてしまいたくなる。

「さっきなんであんな嘘信じたの」

 そう呟いて見つめてみると、箸を止めてすっと目を逸らして、見つめられるとかっこよくて照れるんですけどと冗談交じりに言った。

「付き合ってもうすぐ一年になるし、お互いの事はよく分かってるけど、だからって何でも許される訳じゃないもん。それに、陽が嘘吐くのって人を傷付けたくない時でしょ」

 雲が取り払われた太陽の光が窓から入り込み、光に包まれた部屋の中にある彼女の笑顔は、より一層温かいものに感じられた。

 真子の時は作品に惹かれて趣味も合ったところから交際を始めたのに対し、もともと知り合いだった叶衣とは一夜の関係で終わる筈だったところから交際に発展した。支柱のような存在を必要としていた彼女は、最高のタイミングで目の前に現れた僕をそれとした。そして、日に日に元気を取り戻していった彼女は、一ヶ月ほどで本調子に戻ったようで、太陽のように陽気な性格を発揮し始めた。人が自分とは反対の性格の持ち主に惹かれる事は少なくない。落ち着いた性格の僕は、ムードメーカーな彼女に見事にハマってしまったらしい。

「それ、嘘吐いたら全部バレるって事?」

 そう言うと、嘘発見器じゃないんだからと口を横に開いて微笑みながらははっと笑った。会話の中でよく出てくる、僕の好きな彼女の笑い方だ。

 壁にかけてある時計を確認したかと思ったら、もう学校に行く時間だと慌て始めて、一限遅れで授業が始まる僕まで釣られて用意を始める羽目になった。彼女が準備を終える頃になって、自分は急がなくて良かったのに気が付いて息を吐く。

 腰を下ろしてしばらく散らかった食卓を眺めてから、おもむろに廊下に出るとある部屋に向かった。叶衣が今一人で家にいるのは辛いから住ませてくれと言ってきた時は断ろうと思ったが、ここには入らないと約束できるならいいと条件付きで承諾した。僕以外誰も入れる事の出来ないその部屋が、普段は鍵を掛けている部屋だ。僕の描いたイーゼルに立てかけてある作品がいくつか置いてある。赤黒いカーテンを使っている事で薄気味悪くなっているその部屋の壁一面は写真で埋め尽くされている。全て赤を基調とした、何かに例えるなら薔薇のようなものだ。

 叶うなら、ここに写っている物全部を、抱き締めてキスをして、僕の出来る最大限の愛情を表現したい。僕の感性が誰にも理解されないものだという事を知っているから、ここで一人、数多ある作品を指で撫でて伝える。今日も君達は美しいと。

 

 最近の叶衣は、陽は何もしなくていいからねと妙な献身さを見せている。僕より早く起きて朝食を用意するようになって、夕食を作っているのを手伝おうかと台所を覗くと、風呂が沸いているから入れと追いやられたり、夜は遅くまで洗濯や掃除をしていたり、彼女自身が家事は得意じゃないと言っていたのに明らかに可笑しい。最近一人で家事をしているの理由を聞いてみると、私も女だから彼氏に任せっきりじゃあねとその一点張りだ。他に何かあるようにしか見えない。なので、懲りずに度々理由を聞いてみるのだが、答えるといつも掃除機を掛けるだの洗濯機を回すだの僕を避けるので、その行動が他に理由があるのを更に裏付ける。

 毎日やっていくうちに得意になっていったようで、淡々とこなす姿は経験した事の無い結婚生活を彷彿とさせて、ただ眺めていたくなった。

「手伝うって言ってこないの?」

 視線に気付いた叶衣が声をかけてきたのに対して、肯定の二文字に首を縦に振る動作を加える。結婚したみたいで幸せな気持ちになったなんて口にすれば、お互い照れて何も言えなくなるのは目に見えていた。

「たまに僕から逃げるのってなんで?」

 朝食を運び終えて椅子に座ったタイミングを見計らって口を開いた。

 今なら、理由を付けて逃げる事も出来ないだろう。

 肩を跳ね上げて俯いたので、確認出来たのは唇が震えているのだけだった。その唇が、なんでそんなに同じ事ばかり聞くのと震える言葉を紡ぐ。

「しつこいと嫌われちゃうよ」

「何かあるのに言わないから聞いてるだけだよ」

 僕がそう言うと、分かってないなあと呟いて、涙でぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けた。

「一年も付き合ってるからって何でも許される訳じゃない。本当はずっと、ずっと閉めてるあの部屋に何があるのか気になってるよ、隠し事されてるのは不安。でも、そんなのどうだっていいの。今の私は、陽斗に嫌われて別れる事になったらどうしよってそればっか考えてすごく怖い」

 涙を流して声も掠れているのに、心の中に溜めていたものが溢れ出てくるようで、呼吸を整えながらも言葉は止めなかった。こんなに必死な彼女を見るのは初めてで、その変わり様に何処か胸を打たれた。

「夜ね、最初は、ちょっと控え目になっただけかなって思ってた。でも、ここ二ヶ月くらい背中向けてすぐに寝るようになっちゃって、抱き締めても首とか背中にキスしても何もしてくれないから、私何か嫌われるような事したのかなって思ったの。陽斗は優しいから嫌いになっても言えない人だから、本当に嫌われる前にちょっとでもいい子になりたかった。だから、もしかして家事しんどかったりするのかなって思って全部…」

 彼女の言葉を遮るように、体を抱き寄せて頭を撫でた。

 もう少し聞いていたかったが、喉が潰れないか心配になった。この上なく愛おしいと思えたからそれだけで十分だった。

 僕が出会った中で一番素敵な女性は彼女だと思う。僕が人として成長してきているのももちろんあるだろうが、結婚したいという思いが自然と浮かび上がってきたのは彼女が初めてだ。だが、今日また一段と愛おしい存在になった事が、彼女を更に不安にさせてしまうのは明らかだ。

「嫌いになる訳無いよ」

 彼女に必要なのは、この言葉だろうか。これ以上何かを言ってしまえば僕自身が壊れる気がして、何も言えなかった。僕は今日も彼女の気持ちに応えられないし、この先触れる事があるとしたら、僕は彼女といられなくなる。安心している彼女を悲しませる訳にはいかなくて、謝罪の言葉を並べる事も叶わなかった。

 瞳を真っ直ぐに見つめてきた叶衣の唇に、思わず触れてしまった。こんなにも優しい感触だった事を思い出して、忘れるほど触れていなかった事を自覚した。